ウズベキスタン

ウズベキスタンでの最高の経験を

ウズベキスタン・ガイド

中央アジアの中心部にある日本の約1.2倍の面積をもつ国がウズベキスタン。

UZBEKISTAN

中央アジアの中心であり、この地域の歴史的なハブです。全州の中で最も落ち着きがあり、ロマンティックな雰囲気が漂う都市、サマルカンドとブハラの本拠地です。他の地域と同様に、その美しさはフレンドリーな人々によく表れています。西にあるソビエト前衛美術館から東にある最後のコーカンドのカーン宮殿まで、人里離れた場所に行くと探索するところがたくさんあります。すべての「スタン」の中で最も穏やかな気候で、2月から10月にかけて訪れるのが最適です。

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ウズベキスタンでの最高の経験を

SAMARKAND

「青の都」
サマルカンド

紀元前10世紀頃からオアシス都市として発展し、シルクロードの十字路の町として大きな役割を果たしてきたサマルカンド。13世紀、チンギス・ハーンによって一度は徹底的に町は破壊されたが、14世紀に入り、中央アジアで広大な帝国を造り上げたアミール・ティムールにより、ティムール帝国の首都として新たに発展。今、町にはティムール帝国時代に造られた巨大歴史建造物が数多く残っている。ティムールが呼び寄せた技術者たちにより、中国陶磁器とベルシャの顔料が融合して生まれた「サマルカンドブルー」。その青色のタイルが当時の建造物を覆っている。「青の都」一サマルカンド。さあ、その神髄に触れる旅に出かけよう!

レギスタン広場

サマルカンド、いや、シルクロード観光を代表する景観がレギスタン広場。この場所を訪れたくて、ウズベキスタンヘやって来るという人は少なくない。3つの巨大なイスラーム神学校(メドレセ)が建ち並び、青く輝くドーム、壁面を埋める級密な青のモザイクタイル、そして真っ青な青空という光景が、旅人をこの地へと誘っている。

Registan Square, Sher Dor Madrassah

シャーヒズィンダ廟群

サマルカンドブルーの美しさに酔いしれたいなら、絶対に外せないのがシャーヒズィンダ廟群。ティムールゆかりの人々が眠る霊廟群で、その装飾の美しさ、多様さで、サマルカンドはもちろん、ウズベキスタンを代表する名所となっている。

グルアミール廟

サマルカンドに残るイスラーム建築群の中でもひときわ優美な姿を見せるのがグル・アミール。タジク語で「支配者の墓」を意味し、巨大なティムール帝国を築いたアミール・ティムールが埋葬されている。見るからに壮麗なこのイスラーム建築は、その後のイスラーム世界の他の建造物に大きな影響を与えたといわれており、後にインドに造られたフマーユーン廟やタージマハルもその影響下にあったとされている。

ビビハニム・モスク

1404年、ティムールの命を受けイスラーム世界最大といわれるモスクが誕生した。それがビビハニム・モスク。帝国中から集められた熟練の職人200人、さらに500人以上の労働者、インドから運ばれた95頭のゾウが使われ、わずか5年の歳月で完成している。ビビハニムとは、ティムール最愛の王妃の名前に由来している。

ウルグベク天文台跡

アフラシャブの丘の北東約1kmの場所にある15世紀の天文台跡。1908年、それまで土に埋もれていたこの遺跡をロシアの考古学者が発掘した。遺跡はウルグベクによって造られたもので、円い天文台跡と巨大六分儀の地下部分のみ残っている。ここでの恒星観測を元にウルグベクは1年を365日6時間10分8秒と推測した(現在は365日6時間9分6秒)。ウルグベクの学者としての功績を伝える博物館も併設している。

アフラシャブ博物館

アフラシャブの丘にある博物館で、13世紀にチンギス・ハーンによってサマルカンドの町が破壊される以前の、さまざまな出土品を展示している。博物館内で見逃せないのは入口正面の部屋に展示してある7世紀のフレスコ画。なお博物館裏手は13世紀以前にサマルカンドの町があった場所。現在ユネスコの管轄下で発掘調査が行われている。

コニギル村
メロス紙すき工房

サマルカンド近郊コニギル村にある紙すき工房。751年のタラス河畔の戦いで捕虜になった中国人紙すき職人によりサマルカンドに紙の製法が伝わった。最盛期には400余りの紙すき工房が誕生し、中央アジア&中近東最大の紙の生産地となった。8〜9世紀にサマルカンドからエジプトやヨーロッパへと紙の製法が伝えられたほどだ。

シャブバザール

タシケント通りのビビハニム・モスクの近くにあり、地元住民や観光客で賑わう。香辛料や干しブドウ、干しアンズ、野菜、スイカ、肉、魚など豊富な食料品が売られる。特にウズベク人の日常食であるナンはウズベキスタンで一番おいしいと、地元民に混じって観光客も買い求める。

BUKHARA

オアシスの都
ブハラ

2500年以上の歴史をもつ古都ブハラ。かつて中央アジアの文化の中心地として栄えその後チンギスハーンによる町の破壊はあったものの、16世紀に再び復活。イスラーム宗教色の濃い文化都市としての姿を、今に伝えている。史跡の残る旧市街は当時の面影をよく残しており、まるでタイムスリップしたような気分が味わえる時を越えた散策へ、さあ、出かけよう!

ポイ・カロンコ
ンプレックス

カラーンとはタジク語で「大きい」を意味している。1127年カラハン朝の王によって高さ46mのこの大きなミナレットが建てられた。塔を14層の帯状に分け、それぞれにれんがの異なる積み方で模様を作り出している。塔の上部の1層のみ青タイルが使われており、ここは灯火用窓の下に当たる。ブハラの町を破壊したチンギス・ハーンだが、この塔の前で帽子を落とし、それをひろい上げるときに「この塔は私に頭を下げさせた立派な塔だ」と言い、破壊を免れたという伝説が残る。塔のすぐ横には1514年建造のカラーンモスクがある。その名の通り巨大で、288の丸屋根をもつ回廊と巨大な中庭では最大1万人の信徒が祈りを捧げることができる。現在もラマダン時期など特別なときにはモスクとして使用されている。カラーンモスクと広場を挟んで向かいにあるのがミル・アラブ・メドレセで、ふたつの目大なドームが印象的。現在もイスラーム神学校として使われており、内部の見学はできない。

アルク城

アルクは「城」の意味で、約2500年前のこの周辺が古代ブハラの発祥の地であったとされ、ここに砦があったかどうかは掘ってみなければ分からない。アルク城は7世紀に創建されたといわれるが、その後たび重なる修復や改築が続き、現在の城は18世紀に再建されたものだ。城内にズインダン(監獄)歴史博物館があり、奴隷の写真や資料が多い。絵画には、イスラムの戒律を守らなかった罪人や奴隷の物乞い姿などが描かれている。アルク城はハーンの居城であると共に軍人や役人も住んでいて、20世紀初めには3000人が暮らしていたという。

リャビンハウズ

リャビとは「岸辺」、ハウズは「池」の。大臣であったナディール・ディヴァンペギがこの地池を造りたいと、地主の女性に土地を売ってくれるよう頼んだが断られ、力ずくで、この地下に運河を通し、家屋を流してしまった。地主はやむなく手放したという伝説があり、当時は「カずくの池」と呼ばれていた。池は1620年に公共用水池として造られ、長さ42 m、幅36m、深さ5mで、岸辺に石の段々があり8段下がると水面に達する。かつて、町民たちは水を汲み洗濯をしていた。その近くは、1619年に建てられたナディール・ディヴァンベギハナカでドームの下に十字型のホールがあり、現在はウズベク芸術家たちの画廊になっている。

チャル・ミナル

チャルは「4本」、ミナルは「塔」の意味。1807年に大富豪カリス・ニャズクルによってマドラサの門番小屋として建てられた。マドラサは残っていないがチャル・ミナルと貯水池跡が残った。ミナレットの4本の上部のドームは青いタイルがきらめき、この内の3本は格納庫として、残りの1本はドームの2階に上がる階段があった。かつてはミナレットの頂上にはコウノトリの巣がかかっていた。

スィトライ・
マヒ・ホサ宮殿

ブハラから北に4kmほどの所にあるアミールの公邸で「夏の宮殿」と呼ばれる。当初、アフドゥーラ・ハーン(1910年没)が、宮殿建設のために、ブハラの優れた建築家をロシアに派遣し建築学を勉強させた。後の宮殿建設ではロシアの建築家とブハラの建築家が共に腕を競い合い、ブハラ最後のハーンとなったアリム・ハーンが1911年に完成させた。ヨーロッパ風な外観とオリエント風な内装とを混在させ、東西の建築技術を調和させた。入口の壁面には花瓶に花を生けたタイル絵が西洋風な色使いで描かれている。テラスを持つ「白い館」がハーンの宮殿で、発電機までが備えられている。応接の間や謁見の間は優秀な職人30人が携わっただけあって、息を呑むほど豪華な造りである。

Bukhara (Sitora-i-Mokhi-Khosa)

イスマイル・サマニ廟

892〜943年に造られ、中央アジア最古のイスラム初期の霊廟、そればかりか幾何学的建築技法は世界の建築家や考古学者の注目を集めた。9世紀末にサマン朝4代目である最後の王イスマイル・サマニが父親のために建てた。後に自分(907年没)も孫のナシル・イブン・アフマット(943年没)もここに葬られたことから、サマン朝一族の霊廟になった。ほぼ正方形の10.8×10.7mしかない小さな霊廟だが、壁の厚さが1.8mもある。日干しレンガをさまざまな組み方で積み重ね、また、屋根の半円型ドームの組み方も注目されている。

ブハラの貿易ドーム

観光ではもちろんおみやげ探しで何度も足を運ぶのがタキ周辺。16世紀に建てられた3つタキがあり、南側からタキ・サラフォン、タキ・テルパクフルシャン、タキ・ザルガロン。かつては各タキそれぞれに専門職の強い店があったと言う。現在は工芸品を扱う店が多いのが特徴で、タキを結ぶ遊歩道になっているハキカット通りにも多くの店が並んでいる買い物を楽しみ、歩き疲れたらカフェやチャイハナでのんびりする。

Gizhduvan_005

ギジュドゥヴァン
陶芸工房

ブハラから北へ約46kmの町ギジュドゥヴァン。この町の入口にあるギジュドゥヴァンクラフトは、工芸品好きの間でよく知られる工房。ユニークなのがロバに土作りを手伝ってもらうこと。のんびり屋のロバがゆっくりと土を繰くのが何ともほほえましい。ギジュドヴァンの陶器は、黄土色や緑色をベースに星や太陽、植物を描くのがスタイル。ウズベキスタンの町中で一般的に売られている青色のリシタンスタイルとはだいぶ趣が違う。また焼くときに窯の中で裏向きにするため、焼き上がり時には軸薬がへリに滴のようにたれて小さな凹凸ができる。これもギジュドゥヴァン焼きの特徴。まさにここでしか手に入らない逸品だ。見学はもちろん、実際に自分でスザニの刺繍をしたり、陶器の絵付けをしたりする文化体験も可能だ。

KHIVA

屋外博物館都市
ヒヴァで
タイムスリップ

キジルクム砂漠とカラクム砂漠の間にあるオアシス都市ヒヴァ。19世紀に町は全長6kmにも及ぶデシャンカラと呼ばれる外壁で囲まれていた。ハン(王)の宮殿やモスクなどがあったその中心部はさらに高さ8〜10mの城壁に囲まれた内城であり、イチャンカラと呼ばれている。イチャンカラは現在も、ほぼ当時のままの姿で残っており、博物館都市として世界遺産に登録されている。

イチャン・カラ

中央アジアと西アジアの各都市に存在する内城のうち、無傷の状態で保たれているのはヒヴァのイチャン・カラのみであり、封建的・イスラーム的都市国家を知る上で一級の資料となっている。イチャン・カラの建築物は大きくアルク(城郭)、マドラサ(神学校)、モスク(寺院)、マスジッド(霊廟)に大別される。20のモスク(寺院)と20のマドラサ(神学校)と6基のミナレットなど、50以上の歴史的建造物と250以上の古い住居が残る。

タシュハウリ宮殿

東門近くにある宮殿で1830年代に建造。ヒヴァで最も豪華な装飾や内装を誇る。ふたつのゾーンに分かれており入口が異なる。南側は儀式が行われた場所で、高い柱のテラス天井が印象的北側は中庭を囲むように造られた2階建てハーレム。大小163の部屋があるほか、4人の正妻のための豪華な装飾が施された寝室が残っている。

カルタ・ミナル

オタダルヴァサ門(西門)を一歩踏み込むと、目につくのがカルタ・ミナル。1852年に着工し完成することなく放置された高さ26mのミナレットだ。カルタとは「短い」という意味で、青を基調した採袖タイルで覆われ、日干しレンガ造りの建物群の中にあって、美しくきらめいて見える。ここに住むムハンマド・アミン・ハーンは中央アジアで最も大きく、最も高い塔を建て、400km離れたブハラの町を見張る予定だった。

イスラーム・ホジャ・
メドレセとミナレット

ジュマモスク脇の道を南に入った所にある。ヒヴァ最後のハンであるイスラーム・ホジャによって1910年に建てられた。このメドレセ協に建つミナレットは基底部の直径9.5m、高さ45mの大ミナレット。118段のらせん階段が内部に造られており、登ることができる。頂上からはイチャンカラ内を一望できるのだが、その様子はまさに中世。この町が博物館都市であることを一番実感できるところだ。

パフラヴァン・
マフムド廟

イスラームホジャ・メドレセから小道を北に向かった場所にある。毛皮職人であり詩人・哲学者、そして武道の名手であったパフラヴァン・マフムドが眠っている。聖人としてあがめられており、廟内には聖人の側に葬られると来世でご利益があるとされることから14〜20世紀のハン一族の墓もある。

ジュマ・モスク

メインストリートで絶対外せない見どころで、高さ42mのミナレットが目印だ。このモスクが最初に造られたのは10世紀頃と言われており、その後、何度も修復を重ねて18世紀末に現在の姿となった。内部には55×46mの広さの礼拝所があり、そこに約3m間で213本の木の柱が並ぶ。柱には美しい影刻が施されており、最も古い柱4本は10〜11世紀のものだ。

TERMEZ

テレメズ
バクトリア
帝国の鉄門の町

紀元前4世紀のヘレニズム時代にアレキサンダー大王がスルハンダリヤ地域に現れ、古代テルメズを渡河するための重要な戦略的拠点として都市構造を行った。紀元前4世紀の「カンプィル・テパ」遺跡が、この時の都市跡で、その後クシャン朝王に協力し、強固な城壁に囲まれた仏教信仰の市になった。古代テルメズは紀元前1〜2世紀ごろヨーロッパからインドへ抜けるキャラバン隊の町として、後に中国へと通じるシルクロードの要衝として栄えた。1世紀ごろ古代テルメズを支配したクシャン朝(紀元後1〜3世紀ごろ)の3代目カニシカ王の時代に隆盛を極め、インドからガンダーラを経由してテルメズに仏教が伝来した。

ファヤズテパ仏教遺跡

テルメズ郊外にあるファヤズ・テパは基壇の中央部に半球状のドームが建つ。これは熱砂や風雨を避けるカバーで、内部に約1800年前のストゥーパが保存されている。日干しレンガで築かれた直径3m、高さ2.8mの円筒で頭部が半球状になり白色の彩色がある。隣接して寺院の僧坊、講堂、食堂が建ち、講堂には中庭があって儀式などが行われた。この遺跡が大きな注目を集めたのが、中庭の壁付近から出土したほぼ完全な姿の「三尊仏像」(紀元1〜2世紀)である。うつぶせの状態で埋まっていたため、彫像は欠けることなく眠っていた。タシケントのウズペキスタン歴史博物館に中央アジア最高の仏教美術としれ展示され、多くの人を魅了する。

カラ・テパ仏教遺跡

ウズベキスタン南部のアフガニスタン国境に接する。インドで起こった仏教はテルメズのカラ・テパ遺跡などを経由して中国に伝えられ、さらに朝鮮半島から日本に渡来した。「カラ」は黒い、「テパ」は丘の意味で、3世紀ごろ栄えたクシャン王朝の仏教遺跡である。南丘、中丘、北丘の三つの丘上に広がり、内部からはインド風の石窟寺院や巨大な仏塔、僧坊跡、ストゥーパなどが発掘され、寺院の規模はテルメズ最大級である。発掘は日本の考古学者加藤九酢氏が深く関わり、テルメズ市の「名誉市民」となり、ウズベキスタン政府から「ドストリク(友好)勲章」を受けている。

ズルマラ塔

クシャン朝時代の仏教遺跡(1〜2世紀)の塔でカニシカ王が建立した。日干しレンガと練士で造られ、基壇は約9×8m。かつてここにある郊外地帯では、一見仏教建造物の複合体のように見えましたが、中世の世紀には、この領土は畑で占められていました。ちょうど主要な建設-巨大な迫撃砲、その対面に欠けているものが何世紀にもわたって伝達されました。現時点では未形成の山塊のみでしたが、発掘調査により、建物には長方形の台座があり、ドーム型の戴冠式の円筒形の塔モノリスが建てられていたことがわかりました。ズルマラ塔は大クシャンと関係があり、その規模はファヤズ・テパよりもはるかに大きかった。中央アジア地域の仏教建築におけるこの建物の卓越した価値を示しています。

カンプィル・テパ城塞

テルメズ市の西約30kmにアレクサンダー大王によって築かれた都市がある。「カンプィルテパ」と呼ばれ、アムダリヤ(川)にかかる「渡し場」を取り仕切ることから発展した税関的機能を担った都市吐遺跡である。カンプィルテパはアムダリヤ右岸にあり、小高いなだらかな台地のなかに浅い谷をもち、その片側に広がる。遺跡は城塞と居住区で構成され、東西に約750m、南北に200〜250mある。カンプィルテパの初期の城郭は紀元前3世紀中ごろで、その後紀元前2〜紀元前1世紀に居住区が城郭の外に集中して造られた。1〜2世紀ごろがカンプィル・テパの最も繁栄した時代だったといわれる。しかしクシャン朝の2世紀中ごろから後半にかけて町は衰退し放置されてしまった。

テルメズ考古学博物館

テルメズは仏教遺跡の宝庫とシルクロードの要だけあって、ガンダーラ美術の仏陀像や人物像頭部、仏足断片、唐三彩、ガラス製品、鉄製仏像など個性的な展示品が多い。ウズベキスタンでは重要な遺物はタシケントのウズベキスタン芸術学研究所が収蔵するため複製のものが多いが、テルメズの展示品は歴史観が十分に楽しめる。

キルク・キズ宮殿遺跡

9〜14世紀にかけて40人の女性たちが住んでいた城塞造りの宮殿。修道院という説があるが定かではない。グライム女将と40名の女官が侵攻してきた遊牧民を撃退したという伝説が残る。正方形の敷地は堅固な土塀で囲まれ、四隅に塔が建ち、中央広場の周囲に2階建ての女性たちの部屋が並んでいる。

ダルベルジン・テパ
仏教遺跡

テルメズ市から60kmのスルハンダリヤ州ショルチ市ダルベルジンに、紀元前3〜2世紀に小さな集落が形成された。紀元前後のクシャン朝時代になると集落は宮殿をもつ城砦に発展した。厚さ10mの城壁で囲まれた城内は格子状に道路が走り、塔や砲台、武器庫、投石置場があり、富豪邸宅や住民区、職人街、広場、庭園.土着の神々を泥る神殿、城壁の内外に二つの仏教寺院などが設けられていた。この仏教寺院から出土した、口ひげをはやした貴族像(1〜2世紀)。

スルタン・サオダット
建築群

10〜17世紀の間に増築を重ねコの字型に多くのイスラム廟が建つ。その規模はウズベキスタン最大級といわれ、スルタンとその家族たちが眠る。今でも祈りの場所として使われ訪れる信者が多い。

SHAKHRISABZ

シャフリサブス
緑の町はアミール・
ティムールの故郷

中央アジアで最古の歴史をもつシャフリサブスは、キシュという名で知られ、アレキサンダー大王の遠征で、紀元前328年から約1年この地に滞在して妻クロサナを要っている。7世紀には玄装もインド遠征時に立ち寄ったことを「大唐西域記 』に記している。その後イスラム化が進むが、キシュは9〜10世紀ごろまで中心都市を保っていた。その後サマルカンドやブハラが発展すると、逆に衰退し始めた。14世紀後半、そこに出現したのがティムールで、シャフリサブスは再び脚光を浴びた。

ティムール像

かつての宮殿跡に鎮座するのがティムールの像,結婚式などの記念撮影スポットとして大人気の場所だ。アクサライ宮殿跡の門を背景にティムールが立つ。

アクサライ宮殿

1380年にアミール・ティムールが着工し、建設には20年あまりの歳月を要し、1405年の彼の死後まで続いた。夏の宮殿で、屋上にはプールまで造られた仕大な建造物であるが、今や建物の大部分が崩れ落ち、入口であるアーチ部分が残骸のように残っている。アクサライのアクは「壮大」、サライは「宮殿」の意味で、1404年にこの宮殿を訪れたルイ・ゴンザレス・デクラビホというスペイン使節の日記と16世紀前半の 『ボブル・ナメ』という書物には、宮殿全体が青と金色のタイルで覆われ、天井も精巧な金細工で装飾された燭豪華なものである、と記されている。

ドルッティロヴァット建築群

「眼想の家」と呼ばれる建築群。ウルグベクによって1435〜1437年に建てられた青タイルが美しいコク・グンバスモスクと、その向かいに並ぶふたつの廟からなる。モスクは内部が美しい絵で装飾されている。いちばん奥の廟はウルグベクが自分の子孫のために建てたグンバズィサイーダン廟で、内部には4つの墓石が並んでいる。隣がティムールが建てたシャムスディン・クラル廟ティムールの父とその師が眠っている。

ドレッサオダット建築群

ドルッサオダットとは「権力の座」を意味している。崩れかけた巨大な建物のジャハンギール廟が建築群の中心で、ティムールが22歳で落馬で戦死した長男のジャハンギールのために建造した。廟の正面アーチはアク・サライ宮殿のアーチとほぼ同程度の大きさで、長男の死後から約20年の歳月を費やして建設が終わった。次男のウマル・シェイヒの廟もここにある。廟の前は基底部の台座だけが残る大きな空地になっていて、ここにも廟群が並んでいた。

FERGANA VALLEY

考古学と
工芸地域の
フェルガナ盆地

ウズベキスタン東部、タジキスタン、キルギスと国境を接するフェルガナ盆地は、ウズベキスタンの伝統工芸品製作の中心地である。シルクを使った緋のアトラス、リシタンブルーの名称で知られる陶器など、この一帯に大小の工房が数多く集まっている。西域のフェルガナはかって大宛(ァーリアちょうけん系民族)という国で、漢の武帝に張騫(?〜紀元前114年)が初めて中国に紹介し、西域の道を最初に開通させた東洋史上不朽の名を残した探検家である。

フェルガナ

フェルガナ盆地の南端に位置する人口約17万人の州都。フェルガナは汗血馬と呼ばれた良馬の産地として、前漢の武帝に征服された大宛国として知られる。8世紀にアラブの侵入でイスラム化が始まった。フェルガナはカシュガルから中央アジアへ抜ける街道で、カラハン朝や西遼(1133〜1211年に存在した国)、モンゴル帝国なとも通過し、支配した。その後チムール朝を経て、18世紀にはウズベク系のコーカンド・ハーンが統治した。1876年、帝政ロシアの攻撃でコーカンドハーンは消滅し、帝政ロシアはこの地に軍事要塞を建設し、フェルナガは軍事都市として発展した。

リシタン

リシタンはフェルガナ盆地のフェルガナ州南西端に位置し、人口約4万人の市。リシタンは9世紀から陶器の町として栄え、今日でもウズベキスタンの陶器産業の90%はリシタンで造られたものである。約1100年間にも渡り、陶芸家たちはこの地でしか採れない良質の赤色粘土を元に、軸薬や塗料、山地植物の灰を使った秘法を守り続けている。リシタンは青い幾何学模様の彩色陶器として名高く、この絵付けのスタイルはウズベキスタンのオリジナルになっている。町には現在約800人の陶工がいて、先祖代々の技法を受け継いでいるが、海外との交流も盛んで。

ヨドゥゴルリク
シルク工場

フェルガナ市から北西へ約11 kmのマルギランは、中央アジア最大のシルクの産地。繭から生糸を取り、伝統的な手法で矢緋模様の布地のアトラスを制作する。原色を取り入れた美しいアトラスはウズベク人の民族衣装になって、太陽の光のもと一段と女性の魅力を引きだす。アトラスはほかにも様々な衣料品に使用される。アトラスは手織りと機械織りがあり、またアトラスとアドラスの違いがある。アトラスは縦糸が絹でも、横糸が化学繊維。アドラスは縦糸が絹でも、横糸が綿。それに絹100%のショヒー(ショイル)がある。つまり生地はアトラス(絹70%・綿30%)とアドラス(絹50%・綿50%)、シルク(絹100%)の3種類ある。

フダルヤ・ハーン宮殿

ムキミ公園内にあるコーカンド・ハーン国最後のフダルヤ・ハーンの宮殿。1863年から約10年かけて建設した豪華な宮殿で、現在は郷土博物館になっている。完成2年後の内乱でハーンは追い出されてしまうが、当時の部屋の壁や天井の色彩の豪華さは目を見張るものがある。当時は113の大小の部屋と7つの中庭を備えていたが、今は王の寝室など20余りの部屋と2つの中庭が残る。博物館としては、当時40人以上のハーレムの女たちと過ごした寝室の間に、日本製の陶器類が並べられている。即位の間には、宝石類、ハーンの日用品が、また武器庫や楽器類を展示した部屋などもある。

アフシケント
古代都市遺跡

ナマンガン郊外に位置するアフシケントは、シルダリヤ川沿いの高台にある古代都市遺跡。紀元前8〜7世紀から紀元8世紀頃まではフェルナガ盆地の中心都市として栄えた。12世紀にモンゴル軍の侵略を受け、当初は彼らが住みついたが、やがて出ていくときに町は壊滅状態に破壊された。ティムール朝のバーブルの父の時代になって、町は3kmほど離れた場所に再建されたが、17世紀の大地震で完全に崩壊し衰退してしまう。

クヴァ

クヴァ仏教遺跡遺跡は地下の文化層が厚く、紀元初期以後8世紀ごろまでの歴史を有すると見られる。発掘が行われたのは旧ソ連時代の末期(1958〜59年)で、基壇の上に5〜7世紀の寺院部分と礼拝所が発見された。フェルガナ盆地唯一の仏教寺院で絵画と彫刻で飾られていた。仏像や仏具も多数発掘され、この中に7世紀の魔王頭像が発見された。ここから出土した塑像はどれもインドの造形技法とこの地の守護神の特徴が融合している。クヴァはインドと中国を結ぶシルクロード途上とし、て栄えた町だ。

KARAKALPAKSTAN

カラカルパクスタン:
古代ホラズム王国の遺跡群の場所

カラカルパクスタン共和国はウズベキスタン共和国の中にある自治共和国で、ウズベキスタン国土の37%を占めるが、その国土の80%が砂漠である。ウスズベキスタンの北西に位置し、その北部にアラル海を有する。国名の「カラ」が黒、「カルパク」が帽子という意味で、カラカルパクスタンは「黒い帽子をかぶる民族」ということになる。

イゴール・サヴィツキー記念
カラカルパクスタン共和国
国立美術館

キエフ出身のイゴール・サヴィツキーが収集したカラカルパクスタン及びウズベキスタンの民族学資料及び、ロシア・アヴァンギャルドの絵画群が中心である。とりわけ、サヴィツキーが国家の弾圧下にあった前衛芸術の作品をペレストロイカ以前に半ば公然と収集し続けたことが、ソ連崩壊後、西側世界に知られるようになった。旧ソ連地域の中ではロシア美術館に次ぐ前衛芸術のコレクションを誇る。

モイナク

モイナクはウズベキスタンの西部にある自治共和国・カラカルパクスタン共和国の北部にある都市。アラル海の漁業を中心とした都市であったが、1980年代以降のアラル海の急速な縮小で海岸線が80km以上先に遠ざかり、産業は衰退している。乱獲や、アムダリヤ川上流の綿花地帯からの化学物質の流入で漁業資源は下り坂になり、綿花栽培によるアムダリヤ川およびシルダリヤ川の流入量の減少でアラル海が干上がると漁業および関連産業は劇的に衰退した。現在は多数の漁船が放置され朽ちており、海底だった場所から吹く砂嵐による健康被害も起こっている。

アヤズカラ

スルタンウイズダフ山脈の東端に位置するアヤズカラは、古代ホレムズ王国の軍の駐屯地として使われていたとされる遺跡。およそ千年以上も砂に埋もれていたが、発掘調査によってその全貌が明らかになってきている。アヤズカラユルタキャンプから徒歩15分ほどの山の上にあるのがアヤズカラ1と呼ばれる遺跡。南北182m×東西152m、約2.7haの面積をもつ長方形の城壁をもっている。紀元前4世紀頃から建築が始まり、紀元後1世紀まで使われていたといわれている。城壁2層になっており、現在、遺跡の一部でその様子が確認できる。アヤズカラ1の南西の小さな丘の上にあるのがアヤズカラ2。アヤズカラ1の南端から眺めるその姿は、砂漠の中に忘れさられてしまった古城といった趣がある。ここは7世紀後半〜8世紀前半に建てられた城塞で、城壁の保存状態は比較的いい。

トプラクカラと
キジルカラ

トプラクカラは1〜3世紀にこの地に栄えた古代ホレズム王国クシャーナ朝時代の遺跡。周囲は農地のためアヤズカラのような孤高な雰囲気はないが、遺跡の重要度はひじょうに高い。8〜9mの城壁に囲まれた約500m×約300mの大きさをもつ都市で、3世紀頃には首都でもあった。城壁の北西は、かつての宮殿があった所。ほかにゾロアスター教の寺院跡なども残っている。トプラクカラの北西約1.5kmの所に位置するキジルカラは、1〜4世紀に建造された遺跡。約65m四方の正方形をしており、軍の駐屯地として、あるいは王の宮殿として利用されていたなどという説がある。城壁部分は修復作業が行われており、当時の様子を垣間見ることができる。また伝説では、トプラクカラとキジルカラは地下道でつながっていたとされている。

TASHKENT

中央アジア
最大都市
タシケント

タシケントは世界で最も古い都市の一っで、シルダリヤ川支流のチルチク川沿いのオアシスとして栄えた。タシケントという名前の由来は中国の文献に「緒時国」と記されていて、9〜10世紀ごろ「シャシケント」つまりシャシの都市が、タシュ「石」ケント「都市」に変化したのではないかといわれる。タシケントと呼ばれるようになったのは11世紀以降である。

ウズベキスタン
国立工芸博物館

1907年に建てられたロシア公使の私邸が博物館になった。つまり、この建物自体がそっくり展示物になった。ウズペクの職人たちによって壁面や天井にイスラム様式の精巧で鮮やかな装飾が当時のまま保存されている。コレクションはじゅうたんやスザニ、被服、衣類、木彫、木製彩色装飾、陶器、彫金、ジュエリーなど7000点にのぼる。

ウズベキスタン歴史博物館

ウズベキスタンの歴史を年代順に見ることができる国立博物館。2階がその展示会場で、石器時代から20世紀初頭までのさまざまな展示品が並ぶ。最大の見ものはテルメズのファヤズテパ遺跡の仏教寺院跡から出土したクシャン朝(1〜2世紀)のガンダーラ仏像「三尊仏像」で、ウズベキスタン最大の出土品のーつである。3階はロシア帝国の征服以後の歴史がよく分かるよう展示されている。

ハズラティイマーム広場

タシケント随一のイスラーム建築群があるのが旧市街の北側にあるハズラティ・イマーム広場だ。3つの建物からなる。まずカラサライ通りに面したふたつの青いドームをもつ建物がハズラティ・イマームモスク。タシケントの金曜モスクと言われ、その名の通り金曜日には多くの参拝者が集まる。このモスクの裏手に回ると大きな広場がある。南側にある元メドレセだった建物がコーラン博物館だ。ここの中央に展示されていのが世界最古のコーランと伝えられているウスマンクラーン(ウスマン写本)。博物館内にはほかにも各国語に翻訳されたさまざまなコーランが展示されている(館内写真撮影不可)広場の西側にある巨大イスラーム建築がバラク・ハン・メドレセ。16世紀にシャイバニ朝のバラク・ハンによって建造された。

ナボイオペラバレエ劇場

首都タシケントに建つナポイ劇場は日本人によく知られている。正式名称はアリシェルナポイオペラバレエ劇場という、アリシェルナポイ(1441〜1501年)はウズベキスタンの伝説的な偉人とされる幸相の詩人で、「ウズペクの文学の父」「中央アジアのゲーテ」とも呼ばれている。第二次世界大戦で、ソ連の捕虜になった2万3000人の日本人が、ウズベキスタンに強制労働者として移送された。このなかでタシケントのナボイ劇場の建設を課せられたのは約500人で、このう79人が途中で亡くなっている。

日本人墓地

マウズベキスタン全土で、2万3000人の日本人抑留者が強制労働に従事したが、そのうち884名がウズベキスタンで帰らぬ人になった。タシケント日本人墓地は市の南東部のヤッカサライ通り近くの公営墓地内にあり、タシケント市内の墓地から79名、市外から8名の計87名が眠っている。ここにはウズベキスタン全土の13か所に眠る884名の共同慰霊碑も設営されている。「日本に帰って、もう一度花見がしたい」と言い残して亡くなった抑留者のために、日本からサクラの苗木1300本が贈られ日本人墓地で美しい花を咲かせている。

タシュケント地下鉄

ウズベキスタンの首都タシュケントで運行されている地下鉄である。中央アジアでは最初の地下鉄である。タシュケント地下鉄の計画は、1966年に発生した大地震から2年後の、1968年に開始された。最初の路線は1972年に着工され、1977年11月6日に9駅で開業した。この路線は1980年に延長され、さらに2番目の路線が1984年に開業した。最新の路線はユヌサバード線で、最初の区間は2001年に開業した。タシュケント地下鉄の駅は世界の地下鉄の中でもかなり凝った装飾がなされている。

チョルスーバザール

「4つの道が交わる場所にあるバザール」という意味をもつ、100年以上の歴史をもつタシケントで最も由緒あるバザール。その規模も中央アジア有数と言われ、ありとあらゆる食料品、日用品、雑貨、衣類、靴、おみやげ品まで何でも売られている。チョルスーバザールのシンボルは、まるでサーカスでも行われるのではないかと思われるような青いドーム型のメインビルディング。1階には、その場で肉をさばいてい売る肉屋、乳製品店などがぎっしりと並んでいる(少しだけ香辛料屋もある)。2階はおみやげに人気のドライフルーツやナッツ類を売る店が、これもぎっしり。バザールの東側が巨大なチャイハナ街だ。シャシリクを焼く店から、大鍋でプロフを作る店まで、ローカルフードが大集合。

中央アジアプロフのセンター

ウズベキスタンを代表する料理がプロフ。ビラフの原型といわれる料理でアジアが発祥とされている。中央アジア、特にウズベキスタンでは地方ごとに多少の特色があり、今も、多くの人に愛される料理だ。プロフの歴史:紀元前300年代のアレクサンドロス大王の東方遠征時、ソグディアナの都市(現サマルカンド)を征服した大王の歓待の宴の記述に、すでに名物料理としてその名が記されているほどだ。つまり当時からこの地方を代表する料理だったわけだ。